朝ドラ・エール!にも出た山田耕作の人生がすごかった!

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朝ドラ・エール!すすんできましたね。

今日は、エールで小山田耕三という名で知られる山田耕作について調べてみました、

山田耕作

晩年の写真かと思いますが、顔だちのはっきりしたイケメンさんのようです。

明治19(1886)年6月9日、東京の本郷で旧板倉藩士の医者の次男として誕生。

15歳になったとき、一番上の姉と結婚し義理の兄となったイギリス人宣教師

エドワード・ガントレットに影響を受け、本格的に音楽に興味を示します。

最初は譜面めくりをしていただけでしたが半年ほどすると譜面を読めるようになり、

自分でも楽器をいじり出します。

義兄も、快く手ほどきをし、英習字や速記術も耕筰に教えていきました。

18歳で東京音楽学校予科へ入学し、翌年本科へ進級、

そして研究科に進み音楽にのめりこんでいった耕筰に、

大きなチャンスが訪れます。

恩師であるヴェルクマイスターが、三菱財閥の跡継ぎであった岩崎小弥太に耕筰のことを話し、

留学させてくれたのです。

その後、作曲家としての人生を歩んでいきますが問題ごともたくさん起こりました。

ドイツ留学における語学力不足問題

明治43(1910)年の1月24日、正式にドイツ行きます。

当時の日本の音楽は、まだレベルが低く、誰も合格できるとは思っていませんでしたが、

4人の受験者中3人しかいない合格7者の中に入り、非常に素晴らしい留学のスタートを切ることができました。

ただ、耕筰がドイツで最も困ったことは、ドイツ語ができないことでした。

耕筰は、ドイツ語は学ぶものではなく「盗むもの」と覚悟を決め、

5ヶ月の間でドイツ語をものにしようと考えたのです。

目に入るドイツ語は片っ端から大声で読み、耳にした言葉はすぐさまおうむ返しに繰り返し、

覚えた言葉はそのつど書き留めました。

大きな声で街の看板を呼んでいると、通る人が発音の誤りを直してくれることもありました。

「おれはドイツに誕生して、まだ1ヶ月にも満たぬ赤ん坊だ。何の恥じる必要があろう。」

と勉強を重ね、3ヵ月後には簡単な会話を交わせるまでにレベルアップしていました。

そしてその2年後、ついに日本人として初の交響曲である、『かちどきと平和』を完成させました。

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女性関係

恋多き男で、ドイツ留学前から帰国後30歳頃までは、日本人やドイツ人の女性と浮き名を流し、

婚約しては解消するの繰り返します。

最初の結婚をするや今度は不倫騒動を起こし、

岩崎男爵の逆鱗に触れて楽団支援を打ち切られ、

たった1年で前述の楽団解散を余儀なくされたほどだったようです。

のちにこの女性と結婚されたようですが。

借金問題

ドイツからの帰国後の大正3(1914)年、耕筰は日本初の交響楽演奏会を開催。

また、その楽員によって組織した東京フィルハーモニー管弦楽団で定期演奏会を続け、

日本の交響楽団活動の基礎をつくりました。

さらに歌劇(オペラ)にも取り組もうとしますが、大変にお金がかかるもので

、作曲の収入だけではまかないきれません。

それでも耕筰は「交響楽運動とオペラ運動は、誰かがやらなければならないのだ。

日本では、外国のように国や地方自治体の援助、企業やお金持ちの援助は当てにできない。

どうしても、このように音楽家自体の自己犠牲のうちに音楽を進めなければならない。

これは残念なことだが、今の自分はその立場にあるんだ。」と借金をしながらも運動を進めていました。

耕筰は、『からたちの花』『この道』(北原白秋作詞)『赤とんぼ』(三木露風作詞)などの童謡の作曲も手がけています。

まとめ

西洋の音楽の影響を受けながら、ひたすらに日本の音楽をつきつめた方ということでしょうか・・

女性関係の問題などもあるようですが、とてもエネルギッシュな方だったんでしょうね。

エール!では、先日亡くなられた志村けんさんが演じられることになってます。

主人公の目標の人であり、主人公の才能に脅威を感じる役どころのようです。

という点ではお二人の共通点がみエネルギッシュうけられますね

ご冥福をお祈りいたします。

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